会場に足を踏み入れると、まず警告標識が目に入る。そこは工業施設を思わせる空間である。来場者はフェンスで区切られた通路に導かれ、ビニールカーテンや区画表示、絡み合う配管のあいだを進む。環境音がその場の空気を強調する。公開時には作業着姿のパフォーマーが来場者のあいだを行き交い、保守作業を思わせる行為や、テーマパークの従業員を想起させる接客や誘導を行う。しかし、実際に何かが生産されているのかは明確ではない。
滞在時間が長くなるにつれ、工業施設であるという印象は徐々に揺らぎ始める。それはコラージュとして姿を現す。現実の工業施設を完全には再現しきれない、想像上の環境である。その不整合のなかで、インスタレーションは断片の集積として立ち上がる。そこに構築されるのは、20世紀の一部としての「工業」をめぐるノスタルジックな像である。テクノ・フューチャリズムと終末的想像のあいだを漂う束の間のイメージ群から引き出された構成は、奇妙な磁力を帯びると同時に、誇張された工業的コードの交錯のなかで何が欠落しているのかを示唆する。
美化された要素の寄せ集めは、様式化された工業的想像の中心にある不在を指し示す。そこに労働者の姿はなく、労働そのものも見えない。グローバル・ノースにおいて工場はサービス経済や知識経済へと移行し、その跡地は放置されるか再利用されている。しかし工業生産が消滅したわけではない。それは別の場所へと移動したのである。グローバル・サウスへと外部化され、低廉な労働力が拡大し続ける消費の要求を支えている。
本作は、ポストモダン以降の労働をめぐる議論や様式化された表象の前では、この事実がいかに容易に後景化するかを想起させる。明瞭さと制御の幻想を提供するテーマパークのように、工業的想像は依存関係と権力関係の複雑さを無害化した姿で提示する。しかしそこには困難や労働の痕跡が入り込む余地はない。シミュレーションが現実に優位する。
この没入型の空間は、1967年にギー・ドゥボールが『スペクタクルの社会』で提示した批評を想起させる。資本主義的近代のもとでは、商品だけでなく経験や欲望、知覚までもが生産される。生はやがて表象へと転化する。直接的な経験はイメージへと置き換えられ、観客によって消費される。スペクタクルは覆い隠すだけでなく、忘却を促し、事物がイメージほど容易に消費可能ではないかもしれないという可能性を見えなくする。
工業の幻想をあらためて物質化し、かつての生産拠点へと再配置することで、本作はスペクタクルが何を覆い隠し、何を忘却させようとしているのかを問う。そこは機能を失っているが、演劇的緊張を帯びた空間である。工業生産は消えたのではない。不可視化されたのである。労働をめぐる言語は変化したが、統制、疎外、搾取の構造は持続している。それらはより巧妙に符号化されているが、その力を失ってはいない。私たちは名目上のみ「ポスト工業化」である。
テキスト: Elsa Himmer