動かしがたいと感じられるシステムの中で、私たちはいかに存在しているのか。仕事に消費されるとはどういうことか。すべてを要求しながら、ほとんど何も報いない構造の中を、私たちはどのように生き延びているのか。本展は、そうした問いから立ち上がった。これらの問いはしばらくのあいだ私たちと共にあり、日々や選択、そして蓄積する疲労を静かに形づくってきた。
日本のサラリーマンという存在と戦前の財閥の遺産に目を向けると、企業への献身を背負わされる構図が浮かび上がる。この構図は、世界規模で共有される状況を映す鏡でもある。戦前の産業複合体であった財閥は、企業への忠誠を社会的価値として一般化した。企業は歯止めの効かない力として拡張し続け、労働者の内側を空洞化させながら、自らを唯一の道として提示する。それは理論ではなく、日々の現実として経験される。デフォルトとしての生活である。デフォルトとは、自明のものとして機能する制御の形式である。疑われることなく維持される設定であり、自ら選び取ったのではなく受け継がれてきた規範である。私たちの日常はこうした避けがたいと感じられ、やがて当然のものとして受け入れられる慣習や期待によって形づくられていくのである。自発的な逸脱は排除される。生活のリズムは閉じた循環へと収束する。既定され、効率化され、単調な循環である。参照点のひとつに「月月火水木金金」という言葉がある。戦時中の日本で軍事目的に利用された労働倫理であり、現在も数え切れないスケジュールや内面化された期待のなかに痕跡を残しているものである。土曜日も日曜日も存在しない一週間、休息が制度設計の段階で切り落とされた状態である。
本展では、同僚との勤務後の食事の場で撮影された写真を提示する。日常的な営みであり、儀式でもあり、同時にわずかな解放でもある。夜更けまで続く会話さえも、共有された倦怠や、身体に残る一日の負荷から自由ではない。ここに提示された写真は救済を意味しない。強い照明の下の疲れた顔、疲労で引きつる笑顔も、一日の延長として存在しているのである。私たちはオフィス空間の一部をMATERIALの敷地内へ移設した。仕事と展示、労働と可視化の境界は重なり合う。カーペットやソファ、日々身を置く環境の要素はそのロジックを保ったまま展示空間へ移された。
遂行、忍耐、従属を求められる圧力の下で自己は次第に平板化し、消耗は表立って姿を現すことなく静かに蓄積していく。目の奥に残る鈍い痛みや、長時間労働の後に沈殿する重さとして身体に刻まれる。忙殺という観念は突如として姿を現すものではないく、極度の消耗や孤立、そして自己の静かな崩壊として進行する現象である。こうした緊張を解消しようとすることなく、本展は企業システムの内部で生きることに伴う不快や反復、その攻撃性のための余地を残す場である。そこでは忍耐は当然とされ、規範を問うことは攪乱とみなされる。
耐えることは従うことであり、従うことは消費されることである。
テキスト: Lark Ring - 中崎大河